コラム

「やらない」を、どう乗り越えるか -自分との約束をめぐって-

コラム

2026年10月30日

私たちは、やらない理由を見つけることができる。

今日は気分が乗らない。疲れている。続けても成果が見えない。自分には向いていないのかもしれない。一つひとつは、もっともな理由に聞こえる。実際、それらが適切な判断であることもあるだろう。しかし、その判断によって、何が確かめられないままになるのだろうか。クリスティアーノ・ロナウドは、ジムに行きたくない日もあると認めながら、こう語っている。
“I have a promise to myself.”
「自分との約束がある。」[1・筆者訳]
だから行くのだという。

この言葉は、何を伝えているのだろうか。意志の強さか。徹底した自己管理か。それとも、私たちが行動する理由について、別の可能性を示しているのだろうか。

「頑張る」という言葉は、よく使われる。けれども、頑張るとは、具体的に何をすることなのか。力を振り絞ることか。苦しさに耐えることか。やめたい気持ちを押さえ込むことか。「自分との約束を守る」と言うとき、同じ行動にも、違う意味が生まれるように思う。その違いから考えてみたい。

約束したときと、果たすとき

ニーチェは『道徳の系譜』第二論文で、約束できる存在としての人間を問い、「意志の記憶」を論じた。[2]

それは、以前に決めたことを思い出すだけの記憶ではない。一度意志したことを、実行に至るまで意志し続ける働きである。決意と実行の間には、新しい出来事や状況、別の欲求が入り込む。それでも、最初の意志と行為がつながる。
約束をするときと、それを果たすときとでは、自分の状態は違っている。
始めるときには意欲があっても、途中では退屈しているかもしれない。できると思っていても、思った以上に難しいかもしれない。始めた理由は覚えていても、その理由が遠く感じられることもある。

気持ちが変わるたびに行動を決め直すなら、最初の決意には、どれほどの持続力があるだろうか。
約束は、その場の気持ちが変わっても、行動する理由として残りうる。行きたくないと感じる自分も、行くと決めた自分も、自分である。その両方が存在するところで、約束は働く。
ニーチェの議論は、自分への約束だけを扱ったものではない。しかし、その「意志の記憶」は、ロナウドの言葉を考える手掛かりになる。
私たちは、毎回同じ気持ちにならなければ、同じ行動を続けられないのだろうか。

続けられないことの合理性

続けられないことには、理由がある。

負担が大きく、できる見込みも乏しいことに取り組むのは難しい。時間も労力も限られている。成果の可能性と負担を見比べ、取り組む対象を選ぶことには合理性がある。
ここで、心理学者アルバート・バンデューラの自己効力感という考え方を参照したい。
自己効力感とは、ある行動を自分が遂行できるという見込みである。その行動が望ましい結果をもたらすという期待とは区別される。練習が上達につながると理解していても、自分がその練習を遂行できると思えるとは限らない。[3]

バンデューラは、この見込みが、行動の開始、努力の程度、困難に直面したときの持続に関わると考えた。
この視点を手掛かりに、取り組みの負担と自己効力感を組み合わせてみる。

 自己効力感が高い――できる見込みがある自己効力感が低い――できる見込みが乏しい
楽である・負担が小さい取り組みやすく、続けやすい確信がなくても、試す余地がある
きつい・負担が大きいできるという見込みが、継続を支える負担を引き受ける理由が弱まり、やめやすい

これはバンデューラ自身の分類ではなく、本稿で継続の条件を考えるために置く四象限である。関心や環境、利用できる資源など、他の条件を一定とした概念的な整理でもある。

注目したいのは、右下である。

きつい。そのうえ、できるとも思えない。そこでやめることは、本人にとって不合理とは限らない。負担を避ける理由も、失敗を予想する理由もある。
しかし、ここに罠がある。

右下の罠

バンデューラは、実際に遂行できた経験を、自己効力感を形成する重要な情報源として位置づけた。[3]

できるという見込みが行動を支え、行動した経験が、できるという見込みを育てる。両者は循環している。
すると、できると思えない人は、どうすればよいのだろうか。
できると思えないから取り組まない。取り組まないから、できたという経験が得られない。そのため、できると思えない状態が続いていく。
できるという確信を行動の条件にすると、その確信を得るための経験に届かないことがある。
これは、自己効力感の理論を否定する話ではない。むしろ、その循環を踏まえるからこそ、最初の一歩や、成果の見えない期間を何が支えるのかという問いが生じる。

成果を見込んで行動することには合理性がある。しかし、新しい挑戦では、成果を見積もるための経験そのものが不足している。現在の自分の見込みに、行動するかどうかの判断をすべて委ねてよいのだろうか。
練習や学習の意味も、毎回その場で明らかになるとは限らない。続けた先で初めて、それまでの反復が何を可能にしていたのかがわかることがある。
その都度、効果を確認できたことだけを続けるとしたら、効果を確認できるまで続ける必要があることには、どう取り組むのだろうか。

限界は、どこで知られるのか

哲学者・心理学者のウィリアム・ジェームズは、1907年の論考 The Energies of Men で、疲労を感じて普段活動をやめる地点と、その人が発揮しうる力との関係を考察している。[4]

彼が注目したのは、活動を続けた先で再び力が出てくる「セカンドウィンド」である。通常ならやめている地点の先に、自分では知らなかった活動の可能性があるのではないか。
これは、当時の観察に基づく考察であり、あらゆる疲労を越えて進むことの正しさを示すものではない。しかし、ここで提起された問いには、今も意味がある。
私たちは、自分の限界を、どのように知っているのだろうか。
きつさは現実に感じられている。そのことと、「これ以上はできない」という判断が正確であることは、同じではない。感覚は判断の手掛かりになるが、その感覚から導かれる結論には、まだ確かめられていない部分がある。
続けることで、できる範囲がわかる場合もある。続ける経験によって、できる範囲そのものが変わる場合もある。
行動する前の自分が下す判断は、行動した後の自分が知ることを、まだ含んでいない。
「自分の限界を超える」とは、自分が限界だと考えていたものを、経験によって問い直すことでもあるのだろう。

「やらない」の理由が残っていても

ここで、ロナウドの言葉に戻りたい。

「自分との約束がある。」

この言葉は、きつさを消してくれるわけではない。成功の見込みを示すわけでもない。それでも、行動する理由になる。
「やらない」の理由をすべて論破しなくても、やる理由は持てるのではないか。
気分が乗らないことを認めながら、行動する。成果がまだ見えないことを知りながら、続ける。できるかどうかを確定できないまま、自分が決めたことを実行する。
約束は、現在の自分の評価だけで、その先の経験を閉じてしまうことを防ぐ働きを持ちうる。
しかし、なぜ約束には、そのような力があるのだろうか。
自分が決めた目標も、自分との約束も、自分で変更できる。その意味では、どちらにも取り消す余地がある。それなのに、「目標を取りやめる」と「自分との約束を破る」は、同じこととしては感じられない場合がある。 その違いを、もう少し考えてみたい。

目標の価値を、誰が問い直しているのか

目標に向かって努力するとき、私たちは、その目標に価値があると考えている。

しかし、きつくなり、成果も見えなくなると、その価値自体が疑わしくなることがある。本当に、そこまでして取り組む必要があるのか。他に時間を使うほうがよいのではないか。そもそも、自分が望んでいたことなのだろうか。
これらは、必要な問いでもある。しかし、目標を問い直した結果、やめたいと思う場合と、やめたいから目標を問い直す場合は、外から見るほど明確には分かれない。
大切にしているはずのことを、続けたくない。その不一致は、目標の価値を引き下げることで和らぐことがある。「それほど大切ではなかった」と考えれば、やめることにも納得できる。
ここでは、判断する自分が、いつも中立であるとは限らない。きつさから離れたい自分が、続けることの価値を審査している可能性がある。
まだ実現していない目標の価値を、決定的に証明することは難しい。取り組んだ先でしかわからない意味もある。そのため、現在の自分が組み立てる「やめる理由」に対して、未来の経験は、まだ反論できない。

四象限の右下では、できる見込みが乏しいだけでなく、目指していたことの価値まで失われていくことがある。
ところが、「自分との約束」という言葉には、少し違うことが起きているように思う。
目標の価値に加えて、約束した相手との関係が生じる。その相手もまた、自分である。

もう一人の自分が生まれる

哲学者コニー・ロサティは「自分への約束の重要性」において、自分との約束に向けられてきた疑問を検討している。[5]

約束をするのも、それを解除できるのも自分なら、その約束に拘束力はあるのか。いつでも取り消せるのなら、そもそも約束として成立していないのではないか。
これに対してロサティは、自分で解除できるという可能性だけでは、自分への約束が成立しないことにはならないと論じる。そして、約束を解除することと、約束を破ることとの区別を問題にする。
この区別は、私たちの経験にも関わっている。
自分で決めたことだから、やめてもよい。それは確かである。それでも、納得して約束を解いたときと、約束を反故にしたと感じるときとでは、経験は同じだろうか。
「自分との約束」と呼ぶとき、自分の中に、もう一人の自分が生まれるように感じられることがある。
約束を実行する自分がいる。そして、その約束を果たしてもらう自分がいる。
心理学者ヒューバート・ハーマンスらは、「対話的自己」という考え方を提示した。自己は複数の立場を取り、それらの間に対話的な関係を持ちうるという見方である。[6]
この理論が、自分との約束によって新たな自分が生まれることを、直接実証したわけではない。しかし、自分を単一の判断主体としてだけ捉えず、その内側に関係が成立する可能性を考える手掛かりになる。
約束をした自分と、約束を果たす自分。その違いを、過去と現在という時間の違いだけで考える必要はない。
今、やめたいと思っている自分の中にも、約束を果たしてほしい自分がいる。その二つの立場が、同時に存在しているのではないか。
ニーチェの「意志の記憶」が、時間を隔てた決意と行為のつながりを考える手掛かりになるなら、ここで考えたいのは、約束を果たすその場に同在する、自分と自分との関係である。

果たすことと、果たしてもらうこと

約束をやめれば、負担から解放される。その解放を受け取るのは自分である。同時に、約束を果たしてもらえなかったと感じるのも、自分かもしれない。
やめる側の事情だけで話を終えようとしても、約束を受け取った側の経験が残る。
目標の価値なら、評価を変えることができる。しかし、約束を交わしたという出来事と、その約束を待っていた自分との関係は、目標の価値を引き下げるだけでは片づかないことがある。
ここに、「自分との約束」が、行動する理由として残る強さがあるのではないだろうか。
そして、この関係は、約束を破ったときだけに現れるものでもない。
約束を果たすとき、自分は果たした側にいる。同時に、果たしてもらった側にもいる。自分が行為の担い手であり、その行為を受け取る相手でもある。
「できた」という達成と、「果たしてもらえた」という充足。その二つが、一つの経験の中に重なる可能性がある。
この満足は、将来の成果を待たなければ生じないものではない。目標への到達はまだ遠くても、今日の約束を果たしたという出来事は、すでに起きている。

自分との約束は、未来へ向かう努力の中に、今、果たされる関係を生み出すのかもしれない。

もちろん、自分との約束は変更できる。変更できるからこそ、守るという行為もまた、自分が引き受けるものになる。過去の自分に決定権を永久に明け渡すことと、その場の気持ちだけでは約束を取り消さないことは、異なる。問われるのは、何があっても続けるべきかという一律の規則ではない。 自分は、何を理由に、自分が決めたことを取り消しているのか。そして、そのとき、約束を受け取った自分を、どのように扱っているのか。

頑張ることの感触

「頑張る」と「自分との約束を守る」は、同じ行動の中に共存する。

約束を果たすために、努力も、反復も、きつさを引き受けることも必要になるだろう。ただ、その行動を自分がどう経験するかには、違いが生まれうる。
「もっと頑張れ」と自分に言うとき、今の自分に足りないものへ注意が向くことがある。力が足りない。努力が足りない。まだ十分ではない。
「自分との約束を果たしている」と捉えるときには、同じ行動が、自分で引き受けたことを実現していく過程になる。そこには、苦しさと同時に、納得や満足が存在しうる。
さらに、約束を待つ自分がいるのだとすれば、その行為には、自分に応えるという意味もある。
この違いは、単なる言い換えなのだろうか。
言葉が、その場で行動する理由を変え、行動に伴う経験を変えるのであれば、言い換えにも実際の働きがある。ロナウドの言葉は、努力の量を直接命じることなく、努力を続ける理由を示している。
そして、その言葉は、すでにある動機を説明するだけではないのかもしれない。「自分との約束」と言うことで、自分の中に関係が生まれ、その関係が、行動に働きかける。
目標に向かう自分は、成果と負担を見比べる。約束を交わした自分は、それに加えて、その相手にどう応えるかを考える。
頑張るという行為の中に、応えるという意味が生まれる。

まだ知らない自分へ

四象限の右下にいるとき、負担はすでに現実である。一方、できるという確信も、成果も、まだ十分にはない。

そこで行動をやめれば、きつさから離れることはできる。しかし、続けることでしか得られない経験にも届かなくなる。「自分との約束」は、その負担や不確かさを消さない。それでも、行動する理由を持ち続ける可能性を開く。
約束を果たした満足は、成果が出たときにしか得られないものでもない。上達がまだ見えなくても、取り組むと決めたことを実行したという事実は残る。その充足が、次の行動を支えることもあるのではないか。
私たちは、できると思える自分を待っているうちに、できるようになるための経験を先送りしてはいないだろうか。

「自分との約束」は、成功を保証しない。

それでも、成功がまだ続ける理由になってくれない時間に、行動する理由を与えることがある。
その時間を進む自分の中には、約束を果たそうとする自分と、その約束を待っている自分がいるのかもしれない。 今の自分が「できない」と考えるところで、その先を経験する自分まで、決めてしまってよいのだろうか。

参照文献・資料

[1]The Indian Express, Lifestyle Desk(2025年8月24日)“Cristiano Ronaldo shares his disciplined mindset when it comes to fitness: ‘For me, it is not a sacrifice..’”
https://indianexpress.com/article/lifestyle/fitness/cristiano-ronaldo-disciplined-mindset-fitness-10192762
ロナウドの発言は同記事から引用。日本語は筆者訳。元インタビュー全編との照合は未了。

[2]Nietzsche, Friedrich(1887)Zur Genealogie der Moral(『道徳の系譜』)、第二論文、第1〜2節。Ian Johnstonによる英訳: https://web.viu.ca/johnstoi/nietzsche/genealogy2.htm
による英訳を参照。「意志の記憶」の自分との約束および継続への接続は、本稿の考察である。

[3]Bandura, Albert(1977)“Self-efficacy: Toward a Unifying Theory of Behavioral Change.” Psychological Review, 84(2), 191–215.
https://psycnet.apa.org/doiLanding?doi=10.1037%2F0033-295X.84.2.191
自己効力感と結果予期の区別、努力と持続、遂行経験に関する議論を参照。本文の四象限は筆者による概念的整理であり、検証済みの予測モデルではない。

[4]James, William(1907)“The Energies of Men.” The Philosophical Review, 16(1), 1–20. 同名の単行本版も参照。単行本版の公開本文:https://en.wikisource.org/wiki/The_Energies_of_Men
疲労とセカンドウィンドに関する歴史的考察として参照した。

[5]Rosati, Connie S.(2011)“The Importance of Self-Promises.” In Promises and Agreements: Philosophical Essays. Oxford University Press, pp. 124–155.
https://doi.org/10.1093/acprof:oso/9780195377958.003.0005

大学掲載の著者要旨で確認できる議論を要約した。「もう一人の自分が生まれる」という表現と、満足感への接続は本稿の考察である。

[6]Hermans, Hubert J. M., Kempen, Harry J. G., & van Loon, Rens J. P.(1992)“The Dialogical Self: Beyond Individualism and Rationalism.” American Psychologist, 47(1), 23–33.
https://psycnet.apa.org/doiLanding?doi=10.1037%2F0003-066X.47.1.23
自己における複数の立場と対話的関係という理論的視点を参照。自分との約束への適用は本稿の考察である。

樋口力敏 
(株式会社東京アライアンスアドバイザリー 代表取締役/中小企業診断士/産業カウンセラー)